太宰治、1942年からゆたぼんを論破する
netgeek 2019年7月13日
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勉強の本質的な意味とは…。
ゆたぼんはここ最近、メディアの取材において「算数は電卓を使ったらいいだけやし、漢字はググったらええ」という主張を行って世間の波紋を呼んでいた。そしてYouTubeで公開した動画でも改めて同じ主張を力説している。
ゆたぼんが語る内容まとめ
・2人の小学生からサインを求められ、書いてあげた
・それが算数のノートで、先生に怒られていた
・悪いことしたなって思った(笑)
・でも今は算数を勉強する必要はない!
・スマホのSiriで聞けば早い(2:37から実践)
・10年経てばSiriはもっと賢くなる
・もっと凄いAI(人工知能)もできるかも
・学校で勉強する意味はない
・家でも学ぶことはできる
・学校にはいかなくていい!
最新のテクノロジーを活用すれば必ずしも学校で学ぶ意味はないという主張だ。しかし機械に頼るこの学び方では、独力では暗算ができないようになるし、漢字も書けない。その場しのぎにはなっても知能を高めることは繋がらない。
太宰治の見解。
さて、このゆたぼんの主張について、太宰治が1942年出版の「正義と微笑」(当時の定価は1円50銭) で、本質的な反論を行っていた。
この本は太宰治の弟子である堤重久が弟の日記について話をしており、これを題材とすることにして生まれたもの。日記には学校や教師、友人への不満が痛烈な表現かつユーモラスに綴られており、少年にしか書けない心情を垣間見ることができた。それに対し、太宰治は独自の知見を披露し、少年に反論しているのだ。
日記とYouTubeという違いこそあれど、不満を吐露するゆたぼんと少年は相通じるものがある。つまり、太宰治の反論はゆたぼんに対する説教とみることができる。
太宰治は「勉強の本質はすぐに使える知識を獲得することではなく、人格を完成させることにある」と説く。そして自分の体験談なのか「学生時代に勉強していなかった人は大人になってから必ずむごいエゴイストになる」と綴っている。
▼太宰治。
あなたはどちらの考えを支持するだろうか?考えは人それぞれであり、どのような生き方をするかは自己責任。この記事ではあえて結論には触れないでおく。
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